『プロメテウス』に期待を込めて... ― 『闇の奥』、あるいは、「嫌われ者」の記憶、と、『エイリアン』について、少し ―

昨年末、予告編のリリースの前に公開された『プロメテウス』の写真を見て、一瞬よぎった不安(笑)。それは、もちろん、あの人面の遺跡(?)とその造形による。しかし、その不安は、フランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』(1979、2001:特別完全版)の記憶の想起によって、興奮へと「変貌」する...
ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』を原作とした『地獄の黙示録』は、アメリカでは『エイリアン』と同じ年に公開されている。“ノストロモ”と名付けられた宇宙貨物船、宇宙の「闇」から出現することになる地球外生命=「完全生物」との遭遇、それによって引き起こることになる恐怖。『エイリアン』がリドリー・スコットによる『闇の奥』であったことの記憶...

(『地獄の黙示録』)
< カーツという「恐怖」、「ダークサイド」の記憶 >
例えば、その証明のために、リドリーの長編映画第1作『デュエリスト』(1977)の原作がコンラッドの短編であることや、脱出用シャトルが“ナルキッソス”と名付けられていたという映画本編外の設定といった情報などを、今更、あえて付け加えてみる必要などは無く(しかし、脱出用シャトルがナルキッソスという名であったことは、あの密室内での出来事に関する、私が個人的に抱く解釈=「印象」に添えられる注釈となってはくれる...w)、そんなことよりも、『闇の奥』の映画化は、当初ジョージ・ルーカスが企画していたことや、『スター・ウォーズ』シリーズでの「ダークサイド」のという言葉(そして、その概念)が、『地獄の黙示録』で聞かれる(確認される)ことになり、それが、カーツの思惑の「恐怖」を予告することになっていた記憶や、後にダース・ヴェイダーとなるアナキン・スカイウォーカーが誕生することになった背景に触れていた(父親がいないこと。誰もが持っている微生物であり、“フォースの意志”を伝えるとされるミディ=クロリアンから生まれた、とほのめかされること...)、『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』(1999)が、3Dでリバイバル公開されたばかりという出来事を並べてみて、後の『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』(2005)では、「ダークサイド」こそが、死を克服することさえ出来る力を持ちうるとされていたことや、生命を生み出すことも出来たシスの存在をほのめかして、『スター・ウォーズ』という物語は終わっていたこと、といった、更なる記憶への波及に想いを巡らせてみるほうが楽しい。
「息子が自分の行動を理解するのか気がかりだ。息子へ自分の事を正しく伝えて欲しい」とウィラードに語るカーツ、そして、カーツという“マスター”を殺すことになるウィラード。もし、ウィラードがカーツの言葉通りに行動し、息子が父親を理解することになるなら、カーツの息子は、カーツの後継者ウィラードの“パダワン”ということになる...カーツの王国を去るウィラード。カーツの息子がいる場所はアメリカ本土である。ウィラードの帰国、その「介入」、再「上陸」の出来事を想起すること。それこそ、カーツがささやく「恐怖」である。アメリカ内部から「カーツ」=「ダークサイド」は、侵食を開始する...
< カーツからアッシュへ、そして、「卵」 >
カーツがウィラードに語る「記憶」。収容所の子供達に予防接種をしたが、ベトコンが子供達の腕を切り落としたという出来事の記憶。「老いた女のように声を上げて泣いた」と語るカーツは、それが激しい悲嘆や絶望の感情からではなく、まるで、ベトコンへの驚嘆の感情からであったように(いや、私は驚嘆による涙だったと理解することを積極的に選択する)告白を続ける。まるで、エイリアンを「完全生物」と呼んだアッシュのように、カーツはベトコンを賛美するのである... ― “完璧で、純粋で、明確で、一切迷いがない...信念を持って戦っている、妻子ある男たちだ。愛を知りつつ、力を備えた男たち。彼らには手を下す力がある...持つべき兵士は、道義に聡く、だが同時に、何の感情も、興奮もなく、原始的な殺人本能で人を殺せる男たちだ。理性的判断を持たずに...” ― ※DVD字幕からの抜粋
『地獄の黙示録』のラストショット。ウィラードの顔と並ぶ石像の頭部。それまでにも、オーバーラップによって映し出されることになっていた石像の「顔」。カーツが築いた王国に船で近づいていくウィラードを待ち受けていた、小舟の上や王国への入り口に並んだ現地民達。彼の目の前に広がる、王国を形作る遺跡と死体の光景。それらの記憶は、とりあえず現時点で確認することが出来る『プロメテウス』の予告編などでの、シンプルな造形を持った、何らかの生命によって作られたことが明らかなカプセル状の物体が、人間の顔を模した石像の前に並んでいる光景へと連なることになる。
『エイリアン』での、異星の宇宙船内に無数に並んだ卵。青い「光」によって遮蔽されていた(いや、守られていた?)、あるいは、幽閉されていた(『レジェンド/光と闇の伝説』(1985)でのダークネスのように...)あの卵は、ノストロモ号のクルーが「光」の境界を越えて足を踏み入れてしまった ― または、『ブラックホーク・ダウン』(2001)のように「介入」してしまった、あるいは、『1492 コロンブス』(1992)のように「上陸」してしまった... ― ことによって、エイリアンは「闇」からの最初の誕生を果たすことになる。『プロメテウス』では、(予告編などを見る限り)『エイリアン』での卵に対応しているはずの、あの無数に並んだ物体には、「光」の遮蔽は確認出来ない ― その代わりに注がれる「光」は、プロメテウス号のクルー達によるライトの光である ― 。その対照性からわき起こることになる「恐怖」の予兆...

< 「光」、「可視」と「不可視」の狭間、そのディテール... >
『地獄の黙示録』の特別完全版で追加された、ウィラードがフランス人のプランテーションを訪れるシーン。ウィラードは、彼に“だけ”注がれているかのような、赤く眩い陽光を手で遮りながら ― 同時に、フランス人女性からの視線を注がれることになりながら ― 、一人、また一人と姿を消していくフランス人達それぞれが所有する「記憶」を聞かされ続けることになる。この後に続くシーンで、ウィラードがフランス人女性から「殺すあなたと、愛するあなた」と言われることになるように、このシーンは説明的過ぎるように思わなくもないが、それでも、閉められたレースのカーテン越しに、ウィラードが裸体となったフランス人女性の顔に触れるまでの、劇場公開版からはカットされていた一連のこのシーンは私のお気に入りでもある。
それは、例えば、『地獄の黙示録』で多用されている、様々な色彩を見せる煙幕というディテールが、ウィラードの視界を遮ったり、しかし同時に、隠されていたものの姿を明らかにするようにして、プランテーションのシーンという時間空間を体験する(同時に、体験させられる)ことになる彼の目の前に現れる霧として変奏されることになったり、また、カーツが築いた王国での煙幕が、「カーツ」と彼の「王国」をひた隠しつつも、ウィラードにその姿を次第に見せ付けていくことになる、といった機能が、『1492 コロンブス』での、上陸シーンの霧を思い起こさせることになり、そのようにして、リドリーが多用してきたスモークというディテールによる、「可視」と「不可視」という対照性の機能の記憶へと連なることになるからである。
例えば、『ロビン・フッド』(2010)で、男と女という「異形の生物」同士だからこそ、ロビンとマリアンはレースのカーテンによって分け隔てられることになり、そのようにして“異世界”が作り上げられるさまや ― だから、この辺りの一連のシーンは、軽い笑いの感覚をもって描写されることになる。しかし、同時に、ラストでの二人の「連帯」を予告するようにして、向こう側が容易に透けて見えていたこと... ― 、または、『キングタム・オブ・ヘブン』(2005)で、宮殿から「黒」の色彩を持つレースのカーテンを背景に、王女シビラが「見る側」と「見られる側」という“異世界”の自覚に向かう「変貌」を強いられていく出来事や、バリアンとサラディンの語り合いの場を作り上げる、陽光を遮るテントの屋根として、その変奏が確認されることになる出来事や、ディレクターズ・カット版で見ることが出来る、バリアンとギーの戦いの場面での、やはり陽光を遮りながらも、その「光」の存在を隠すことは無い半透明の布地の配置とその機能 ― 「光」はバリアンが振り上げた「銀」の色彩を持つ剣に注がれ、ギーはそれを見つめることしか出来ない。『デュエリスト』のラストシーンでのフェローのように... ― を思い起こさせることになり、また、『ワールド・オブ・ライズ』(2008)で、イランの女優ゴルシフテ・ファラハニ演じるアイシャが、“アメリカのイケメン人気俳優”レオナルド・ディカプリオ(この、あまりに単純な、しかし、真面目なw「印象」の想起が重要なのである)演じるフェリスに、顔を隠すかのようなヒジャーブを身に付けることなく、素晴らしい笑顔を見せることになる瞬間の感動の記憶へと連なることになる(それは、リドリーの弟、トニー・スコットが、デビュー作『ハンガー』(1983)から利用し続けていたレースのカーテンの記憶へと、更に連なっていく...)。
「ベトコンの生みの親はアメリカだ」という台詞に驚いたりもする(笑)ウィラード。ノストロモ号内で産声をあげることになるエイリアンが、「食事」の光景を誕生の舞台としていたように、このシーンもまた「食事」の出来事の中で描写されていたのだから、「生みの親」という台詞も、人類誕生の起源についての物語となるらしい『プロメテウス』に連なる記憶のように思われてくる。『プロメテウス』の予告編で既に確認出来る、“招待状”だと説明される古代文明に共通するサイン。その発見場所の一つとして“フランス”の洞窟画があげられていること。そこには、例えば、『マッチスティック・メン』(2003)での「建築物」へのこだわりから、あからさまにジャック・タチの記憶をサンプリングすることになっていた『プロヴァンスの贈りもの』(2006)の「記憶」に代表されるように、リドリーが繰り返してきた“フランス”の利用を思い起こすことになる...
余談だが、『地獄の黙示録』という映画が持つ時間感覚に、私は『ブレードランナー』(1982)との共通を軽く(何となくw)思い起こすことになる。カーマイン・コッポラが担当したシンセサウンドによるサウンドトラックの効果、いや、この辺りは、ヴァンゲリスの音楽が生んでいた感触、というよりも、タンジェリン・ドリームがサウンドトラックを担当したウィリアム・フリードキンの1977年の作品『恐怖の報酬』(もちろん122分版の)が近いのかもしれない、と、私のお気に入りの映画を引き合いに出してみたに過ぎないのだが(笑)、そんな連なりよりも、『ブレードランナー』の劇場公開版のように、主人公のナレーションが物語の進行を担っているという共通から、そこで、『ブレードランナー』は、ディレクターズ・カット版と後のファイナル・カット版でナレーションを削除したことを思い起こして、もし、『地獄の黙示録』からウィラードのナレーションを削除したら...と、不謹慎な(?w)妄想を積極的に楽しんでみたくなる。いや、ナレーションの無い『地獄の黙示録』は更に素晴らしい、かもしれない、と...(笑)
< “リドリー・スコットは「異文化の対立」を描いている”...?w 、または、「上陸」=「介入」すること。 >
さて、リドリー・スコットの映画を見るということは、「光」と「闇」、「光」を自ら放つかのような「白」(それは「銀」という色彩を媒体とされもする。だから、同じように「光」を放つかのように見える「金」の色彩も確認されることになる...)の色彩と「黒」の色彩、その対照性の狭間の時間空間で、必然的に引き起こることになる対立の出来事が、互いの対照性故の「異形」ぶりと、相手が持ち得ている「異形」であることの「純粋」さを求め合うこと=「連帯」の出来事へと「変貌」していくさま、そして、その物語を楽しむ=「見る」ことである。
例えば、“リドリー・スコットは「異文化の対立」を描いている”、といった理解は、彼が駆使する映像へのこだわりといった側面“だけ”から「ビジュアリスト」といった形容をし続けてきてしまった周囲の安直さと同様に安直でしかなく、それは、ノストロモ号のクルー達が入り込もうとしていた、地球外生命の宇宙船の開口部が女性器の形をしていたことを確認し、そこに、エイリアンの造形が男性器をモチーフとしていたといった映画本編外での情報を合わせてみて、それだけで一体何を理解することになるのか、私には全く理解出来無いけれど(笑)、何かを理解した気になってしまった鑑賞者が、未だに、そうした単なる確認作業で満足し続けてしまっているような安直さとしても確認されることになる。
そうした方々は、それ以上の体験を必要としていないのだから別に構わないことでもあるけれど、しかし、「光」と「闇」が対立から連帯へと「変貌」するさまこそを描き続けているリドリーが、その物語への“開口部”として配置した「誘惑」のディテールを確認しただけに過ぎないその視線を、彼らは再び『プロメテウス』にも注いでしまうことになるのだろうか?“開口部”で立ち止まり、「誘惑」のための見てくれに目を奪われているだけの視線は、その奥で待ち構えている未知の存在=「映画」そのものとの対峙を達成することは無い。その“闇の奥”で、鑑賞者が必然として体験することになる「恐怖」(それは、『エイリアン』、あるいは、『プロメテウス』という映画が、恐怖描写を見せることになることとは別の「恐怖」である)から、自分を遠ざけているだけの彼らは、まるで、『エイリアン』でのアッシュが、異星の宇宙船に向かったクルー達をモニター越しに眺めていたようにして、遠い安全地帯から「映画」を傍観しているだけなのである。それは「映画」を「見ること」には決してならず、だから、『エイリアン』という映画を「見た」はずの(繰り返し、何度も...)彼らは、何も体験する=「見る」ことは無かった、と言えるのであり、「見る」という体験を経て「変貌」することになる、自分自身への視線を避け続けてしまったのである。
だから、ノストロモ号の乗組員達が、生命を生み出す“女性器”内に入り込んでいったようにして、リドリーに「映画」を生み出させることになる、彼の“女性器”内部wに(だから、リドリー自身が「異形の生物」に他ならないのだがw)入り込むことで、子宮内で待ち受けている彼の子供=「映画」との対峙は、やっと(笑)達成されることになる。リドリー・スコットという、ハリウッド娯楽映画を撮り続けているイギリス人監督の作品群は、例えば、『ブラックホーク・ダウン』での「介入」の出来事を思い起こさせるようにして、こちら側からの積極的な「介入」を待ち続けているのであり、だからこそ、リドリーの映画では、“異世界”への「上陸」の出来事が繰り返し描かれることになる ― 現実世界にいる鑑賞者からすれば、映画内の世界は“異世界”である ― 。例えば、『デュエリスト』の物語の発端が、デュベールがフェローの居場所に「介入」してしまうことであったように ― 気にかけていた婦人と過ごしていた場所に押しかけ(勝手に「上陸」しw)、自分を侮辱した、として、フェローはデュベールに決闘を申し込むのである ― 。リドリーが駆使する映像美とは、鑑賞者の視線を誘惑する手段としての、単なる見てくれの「美」として、ハリウッド娯楽映画に相応しい「軽さ」をもって利用されながらも、同時に、自らの主題の視覚化が達成された「美」として機能する。そのリドリーの手腕こそ、“アート”という言葉が持つ印象の利用をもって形容されるべきものである。だから、鑑賞者は「見ること」という積極的な「介入」=「上陸」の姿勢をもって、彼の映画=「作品」を「体験」しなければならない。
< 「嫌われ者」と「愛される者」、と、軽く『エイリアン』論を...w >

(『エイリアン』)
例えば、『デュエリスト』や『エイリアン』、あるいは『ハンニバル』(2001)のように、対立する存在の連帯は達成されることなく終わっていたように“思える”作品も、リドリーは撮ったりもしている。しかし、例えば、『エイリアン』において、劇中で「完全生物」と賛美されてもいた異形の地球外生物=エイリアンを、宇宙の「闇」へと再び送り返すことに成功した、唯一の生存者となる女性、リプリーは、その意味で、エイリアン以上の「完全生物」であったと言えることになるように、厳格に規律に従い、船内にエイリアンを持ち込むことになる事態を“ただ一人”回避しようとしていた彼女は、そのある種の「純粋」さの力量を持ち合わせていた故に、ノストロモ号のクルーの中で“浮いた”存在(=「異形の生物」w)として、最初から「嫌われ者」だったのである ― その側面の強調のために、ディレクターズ・カット版では、異星の探索から戻ったクルーを隔離しようとしたリプリーが、帰還したランバートから平手打ちを受けるシーンが追加されることになる... ― 。
リドリー・スコットが描き続ける複数の主題の一つである「嫌われ者」同士として、アッシュから「純粋」だとも説明されることになっていたエイリアンと“共に”、ノストロモ号の爆破を逃れることになるその後の描写。エイリアンがペニスをモチーフにしてデザインされたという映画外の情報など無くても、長く伸びたエイリアンの頭部が、ペニスのように思われてくること(そうした「印象」を抱くこと)は、リドリーの演出によって簡単に想起させられることである。リプリーの方に顔を向け、確かに彼女を見たはずのエイリアンは、すぐさま彼女を襲うことは無く、しかも、“彼"(笑)は、シャトル内の機械造形の中に体を横たえた自分が、そこから出るように=起き上がるように、リプリーから“強制される”まで動こうとはしない。まるで、横になっている自分の姿(“彼”は裸体である)を見せつけるかのように、そして、リプリーを誘っているかのような、優しく撫でるような妖艶な指先の動きが描写され、そこで、ランバートを襲う際の尾の動きの「印象」の記憶が思い起こされることになれば、当然、この脱出用シャトル内という、リプリーとエイリアンによる“二人だけの密室”のシーンには、エロティックさの「印象」がたちこめることになる ― だから、この“密室”が“ナルキッソス”と名付けられていたという映画本編外の情報は、“裸体”をリプリーに見せつけて「誘惑」するエイリアンの、ナルシスト的「印象」wを映画本編外からの注釈として補完することになる(私の勝手な個人的解釈においてw)― 。
そのエロティックさの「印象」は、直前に下着姿となるリプリーによって準備されることになり、また、そこには、エイリアンの口から滴り落ちる唾液(いや、それとも、滴り落ちる...w)といった更なる「印象」が追加されることになるのだから、エイリアンの長く伸びた頭部の形状が、何を想起させることになるのかは明白なものとなっていく。リプリーの視線を借りたカメラがとらえる、エイリアンの頭部からは、ゆっくりと伸びてくる更なる口が出現することになり、それは、まさに人間のペニスを思い起こさせる形状を持っていたのだから。こうしたエイリアンの態度と仕草を、クローゼットに逃げ込んだリプリーが直視して“しまう”という演出の利用は、更にそこに追加される「印象」を想起させることになる。それは、彼女がエイリアンの姿を直視し続けることになるのは、迫り来る死の恐怖への警戒からなのでは無く、見たことも無い異形の(巨大なw)ペニスへの興味 ― ということは、それは同時に、それを“体験したことが無い”ことwへの恐怖となり、その恐怖への警戒となるw ―か らではないのか?、という「印象」とその疑念である。

(『エイリアン』)
このようにして、この『エイリアン』の終盤のシーンは、リプリーがエイリアンに殺される危険への「恐怖」が、誰もが等しく目撃出来る光景として描かれながら、同時に、エイリアンと人間という「異形の生物」同士による“許されない「連帯」”wの達成へと向か来つつあることへの「危険」を静かに描写していくことになる。例えば、ここで、「レイプ」という「印象」を一瞬想起さられることになったとしても、そんな安直な理解に収まることは無いのである。何故なら、前述したように、エイリアンは起き上がることをリプリーから“強制される”まで、自分からは動こうとはせず、クローゼットから出たリプリーには、エイリアンを船外へと追いやる目的があったにせよ、背中を向けて、まるでエイリアンを待っているかのような態度を見せて“しまって”いたからである。それを「見る」のは、“彼”=エイリアンであり、そんなリプリーの態度に、“彼”は、“女性の恥らい(例えば、初めてベッドを共にする前の...w)”といった「印象」を見とってしまったのかもしれないwからである。後ろを振り返ったリプリーが目にすることになった、エイリアンの「顔」。口を大きく開けた“彼”のあの表情は、エイリアンからリプリーへの、“異形の(そして、愛故の)微笑みかけ”だったのかもしれず、その「印象」は、次に触れるリドリーの作品群での「笑顔」の記憶へと連なっていくことになる。
エイリアンは、結果的にリプリーに敗北してしまう=“拒絶”されてしまうことになり、実は「不完全生物」であったという屈辱を背負って、再び宇宙の「闇」へと追いやられることになる。リプリーという「完全生物」が“伴侶”として、あるいは、ベッドを共にする相手として選択した「異形の生物」=「愛される者」は、猫のジョーンズ(この名前から雄であることは明白である)だったのだから(笑)。ディレクターズ・カット版で追加された、ジョーンズが入った箱をエイリアンが弾き飛ばすショット。あれは、リプリーという“女性”を奪い合うライバルとして、リプリーの保護を既に受けているジョーンズへの嫉妬の態度なのであるw
このようにして、「嫌われ者」の主題における、「嫌われ者」への「愛」の視線をリドリーは注ぎ続けてきた。“見えていながら、見えない”このドラマは、『プロメテウス』において、どのような形で変奏されることになるのだろうか...

『プロメテウス』の主人公であるエリザベスにキャスティングされたノオミ・ラパスは、『ミレニアム』シリーズで、特異な容貌と自身の過去の記憶によって、周囲からの、そして、自分自身からの「嫌われ者」となる主人公のリスベットを演じていた。エリザベスは、古代文明の遺跡に残されたサインを“招待状”と理解して“しまい”、地球外の生命から「愛される者」としての自分(ということは「人類」)を信じて疑わなかったはずの彼女自身が、それは「間違っていた」と口にしてしまうことになり、自分は(そして、人類は)「嫌われ者」であったことを自覚させられることになる...、と、そんな予兆を、現在見ることが出来る予告編から勝手に見とることになり、それは、“『エイリアン』のDNA”として、「完全生物」=リプリーという「嫌われ者」の記憶へと連なっていくことになる。そのようにして、私が抱く『プロメテウス』への期待は刺激されることになる...
いや、予告編で聞かれる台詞やシーンがそのように繋がる確信など、当たり前だが一切無い。しかし、こうした妄想の喚起の出来事に自分勝手に興奮することになるのは、「愛される者」としても当然描かれることになるはずのエリザベスが、洞窟での壁画の発見に喜んでいるらしいことから見せる「笑顔」が、予告編内で既に見ることが出来る、苦悩や苦しみや恐怖の表情や素振りへと「変貌」していく出来事が描かれるはずの、『プロメテウス』という物語への妄想へと連なるからあり、それは、例えば、『ワールド・オブ・ライズ』でのゴルシフテ・ファラハニや、『マッチスティック・メン』でのアリソン・ローマンや、『レジェンド/光と闇の伝説』でのミア・サラや、『アメリカン・ギャングスター』(2007)でのデンゼル・ワシントンとラッセル・クロウが見せていた、美しい「笑顔」の記憶へと連なることになるからである。

< 「謎の答えを、知ってはいけない」... >
日本版のポスターに表記されている、大抵は映画本編が描いていることとはズレているwキャッチコピー、「謎の答えを、知っていけない」や、予告編での、マイケル・ファスベンダー演じるデヴィッドが口にする"How far would you go to get your answers?"(で、あってる?w)の問いかけ。キャッチコピーもデヴィッドの台詞も、『エイリアン』の前日騨には収まらないとの情報があるとは言え、予告編などを見る限りでは、『エイリアン』での、スペース・ジョッキーと呼ばれた謎の異星生物に触れて“しまう”ことはまず間違い無い『プロメテウス』という映画を撮って“しまった”リドリー・スコット本人の自問として、また、『エイリアン』での謎の解明を待ち望む『エイリアン』という映画のファンへの問いかけとして響いて“しまう”ことになるのは面白い。
謎(始まり)の答えを知っても、後の物語である『エイリアン』という、傑作としての評価を確立した「映画」は既に“撮られてしまった”(『エイリアン』という物語は既に“起こってしまった”)のであり、だから、"How far would you go to get your answers?"の問いかけは、『エイリアン』がそうであったように、『プロメテウス』が再び『2001年宇宙の旅』を想起させるようにして、リドリーに映画を生み出させる“起源”の謎も想起させることになりながら、しかし、それは、既に謎なのでは無いことを伝えているように思えてくる。回転するプロメテウス号の動きや、『エイリアン』での、瞳孔を思わせる動きで開閉するダクトの再現のような、スペース・ジョッキーの台座(?)が現れるショットや、ホログラム(?)が映し出す天体図、そして、異星の宇宙船が持つフォルム、といった、多用される「円」のイメージは、『エイリアン』より過去が舞台とされているはずの『プロメテウス』が、“未来”である『エイリアン』という作品への回帰という、時間空間を越えた運動を達成する「映画」となることを想起させることになり、そのようにして、謎の答えは、実は、既に『エイリアン』で提示されていたことを円を描くようにして予告することになる...
< 「白」と「黒」、「色彩」、そして、「振り返ること」 >

『エイリアン』の冒頭、睡眠装置から目を覚ますノストロモ号のクルー達を包んでいた「白」の色彩は、終盤でリプリーが身につける「白」の宇宙服へと連なる。クルー全員を保護していたはずの「白」の色彩は、脱出用シャトルに乗り込んだリプリーただ一人を保護することになり、エイリアンを宇宙の「闇」=「黒」の色彩へと追いやった彼女の再びの眠りを「光」が包み込むことになる。しかし、『プロメテウス』でクルー達は、「黄色」の色彩を持つ「光」に満たされた装置に収められていること。それは、私にとって、不気味な予兆として期待と興奮を助長することになる。それは、「黄色」の色彩が、シャーリーズ・セロン演じるメレディス・ヴィッカーズと、アンドロイドであるらしいデヴィッドが持つ、「金」色彩を持つ髪へと連なっていくことになるからだ。

例えば、『レジェンド/光と闇の伝説』で、トム・クルーズが演じた森に住む若者ジャックが、金色の鎧と剣、盾を身に付け、王女リリーをダークネスから救い出そうと闘いを挑むことになっても、あの作品の主人公は、「白」の色彩を持ったドレスを身につけた王女リリーであったように ― 彼女は、宇宙の秩序であるとされるユニコーンでさえ「誘惑」して“しまう”ことになる ― 、リドリーの作品における「金」という色彩は、鑑賞者の瞳を引き付ける「誘惑」としてありながら、ある種のまやかしの色彩として機能することになっていた。
主人公バリアンと敵対する側であり、聡明な王として描かれていたサラディンが身につけていた鎧に「金」の色彩が確認されことになり、また、十字軍が掲げる十字架もまた「金」の色彩をもって輝くことになっていたように、『キングダム・オブ・ヘブン』は、キリスト教徒側とイスラム教徒側の対立を描こうとした映画なのでは無く、「完全な騎士」=「完全生物」へと鍛冶屋の若者が「変貌」していく様と、「愛される者」としてエルサレムの人々からの視線を受け止めることになる「完全な騎士」からの「嫌われ者」となる存在は何だったのか ― やはり「変貌」を遂げることになるシビラと共に、バリアンが去っていく姿が映し出されて、この映画は終わる ― についてが描かれていたように、『エイリアン』で、ノストロモ号の自爆装置が作動して点灯することになるライトが持っていた色彩へと連なることにもなる「黄色」の色彩が孕むことになる「印象」は、作品のタイトルともなっている「プロメテウス」と名付けられた宇宙船のクルー達が遭遇することになるはずの恐怖の出来事を、鑑賞者が同時に目撃していくことになる危険と、その危険は既に絶望に連なっているだけなのかもしれないことを警告するようにして、しかし、その誰もが等しく目にすることになる恐怖の出来事そのものは、『プロメテウス』という作品の中心に据えられた「恐怖」では無いことを予告する。
中心に据えられるはずの真の「恐怖」とは、『エイリアン』において、リプリーが「白」の色彩を身につけ、膝の上に(いや、股間に?w)忍ばせていた銛をエイリアンに向けて発射してみせることになる「変貌」(まるで、飛び出すペニスを持った女に変貌したかのような...w)を達成して“しまった”ものが一体何だったのか、その記憶を呼び起こすようにして、やはり、エリザベスが見せていた「笑顔」の「変貌」を呼び起こすものへの疑念となり、そして、「嫌われ者」が描かれる以上、「愛される者」も必然として同時に描かれることになるリドリーの作品として、『プロメテウス』における「愛される者」とはどんな存在であるのか?という疑念を想起させることになる。こうした、リドリーの複数の主題を巡る“映像へのこだわり”の運動=「映像美」こそ、リドリーが撮り続けている「映画」である。

「青」の色彩をもった、ホログラムのような天体図(?)に見惚れるような仕草を見せるデヴィッド。異星の生物の建造物内を調査する浮遊する装置が放つ「赤」の色彩。予告編で確認出来るそうした色彩の乱舞は、ヴィッカーズらしき人物が脱出用(?)の装置に入るショットが持つ過剰な色彩への興奮を呼び起こすことになり、それは、弟トニー・スコットの近作『アンストッパブル』(2010)で利用されていた過剰な色彩の「暴力」の記憶へと連なる。

それを目にする者への警告として機能することになる「黄色」の色彩を持ったベストを身につけた白人の新米機関士ウィルに対して、黒人のベテラン機関士フランクは「不安になる」と口にする。暴走する「赤」の色彩を持った機関車を、「青」の色彩を持った機関車を持って停止させようとする彼らは、777号と呼ばれる、幸運のナンバーを3つも連ねた機関車の暴走という「暴力」に、死の危険を孕む「暴力」的な方法をもって対抗する。対立する姿を見せていた二人の機関士は、「暴力」の出来事を等しく共有した末の「連帯」を、“777”という幸運のナンバーに相応しく達成することになり、その結果としての二人の「笑顔」が映し出されて、『アンストッパブル』という映画は終わりを迎える。そのようにして、芸術的な映画を撮ると形容されてきた兄リドリーと、大衆的な映画を撮ると形容されてきた弟トニーは、そうした周囲からの対照性についての「印象」を簡単に引き出すことになりながら、そうした対立が「連帯」へと「変貌」する様を、彼らの対照的な作品群の「連帯」をもって実体化し続けている。

それは、トニーの1995年の作品『クリムゾン・タイド』が、「黒」の色彩を持つデンゼル・ワシントン演じるハンターと、「白」の色彩を持つジーン・ハックマン演じるラムジー(トニー・スコット自身を思い起こさせるように、キャップを愛用していた...)の間で引き起こる対立と連帯の出来事をその物語とし、馬と犬を巡る会話によって始められた二人の物語は、再び馬と犬の利用によって終わりを迎えることになっていたように(と、この辺りについては、前にも書いているのだがw)、リドリーとトニーが共に、四本足で歩行する「異形の生物」を常に登場させてきたその「印象」の利用の記憶は、「プロメテウス」と名付けられた宇宙船が、四本の足で異星に着陸する姿へと連なることにもなる...

プロメテウスとは、火を人間に与えたとされる神の名である、といった映画外の知識が無くても、リドリーが「火」を常に描き続けてきたことは、リドリーの代表作として一般的に認知されることになるはずの、『ブレードランナー』の冒頭での、2019年のロサンゼルスの俯瞰シーンを思い出すまでも無く明らかである。『ロビン・フッド』での「光」と「闇」が、『レジェンド/光と闇の伝説』を思い起こさせる暖炉の炎によって浮かび上がることになっていたように。それは、例えば、『キングダム・オブ・ヘブン』のディレクターズ・カット版で見ることが出来る、シビラの息子がロウソクの炎に手をかざす姿が描かれた“説明的過ぎる”シーンの記憶を思い起こさせることにもなり、 ― そこで、鑑賞者が確かに視覚する=「見る」ものは、息子もまたボードワン4世と同じ病を患っていることの暗示では無く、炎にかざされた手のひらがまとうことになる「黒」の色彩である ― 、『プロメテウス』の予告編でも、『エイリアン』の記憶を繰り返すかのように、火炎放射器らしき装置からの炎が確認されることになる。しかし、これらの炎が発する「光」は、「闇」こそを際立たせようとしているのか?それとも、「闇」から浮かび上がる対象を照らし出そうとしているのだろうか?例えば、『地獄の黙示録』は、カーツの顔を照らし出しすために「闇」を利用していたのか?それとも、「闇」を照らし出すためにカーツの顔を利用していたのか?
全てを焼き尽くすことにもなる危険な炎は、暖かさを与え、人々はそこに集うことにもなる。そうした「印象」の対照性の狭間で「見る者」が選択すべきものは何か?その“正しい”判断のためには、『エイリアン』という過去に回帰することになるはずの最新作『プロメテウス』という映画の存在のようにして、「振り返ること」を模倣しなくてはならない。『ブレードランナー』で、デッカードが「振り返ること」によって、ユニコーンの折り紙を手にとることになり、エレベーター内の「闇」という未来へと歩みを進めることになっていたように。あるいは、エイリアンを船外へと追いやる出来事が「振り返ること」の描写の後に引き起こり、リプリーは再度の眠りと救助への希望という未来を手に入れることになっていたように。または、トニーの『アンストッパブル』で、フランクとウィルが暴走する機関車を逆走によって追う姿が、「振り返ること」を持続し続けていたように。果たして、リドリー・スコットによる“プロメテウス”が鑑賞者に与えることになる「火」は、未来を照らし出すことになるのか?、過去を照らし出すことになるのか?、いや、双方を焼き尽くすだけなのか? そして、『プロメテウス』において「振り返ること」を体現するものは何か?、と、そんな妄想へと駆り立てられる“今”こそが楽しかった、と鑑賞後に振り返ることが無いように祈るばかり、でもある(笑)。
で、一番お気に入りの予告編は「IMAX 3D」バージョン。
最初にリリースされた予告編も素晴らしかった...
最近リリースされたこれもイイ...







